函館おすすめ観光スポット~五稜郭の見どころ!~

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五稜郭

こんにちはmizuです。

季節によってさまざまな姿を見せる珍しい星形の城郭「五稜郭」。そんな函館の中でも人気の観光スポットの見どころをご紹介します!

五稜郭の見どころ

四季の五稜郭

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五稜郭の春は桜とともにやってきます。大正時代から植えられたソメイヨシノなど約1600本が咲き乱れます。

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初夏はペリー来航から始まる五稜郭の歴史をテーマとする維新行列のパレード「箱館五稜郭祭」

冬は幻想的な真っ白な世界と「五稜郭(ほし)の夢」。星形の堀の周囲を2000個のイルミネーションで彩ります。

珍しい星形の城郭

五稜郭の特徴である星型の城の起源は16世紀ころのヨーロッパです。戦乱の相次ぐ中で、町全体を城壁で囲んだ「城郭都市」が数多く造られましたが、銃や大砲が発達してくると、これに対抗して防御側の銃の死角を少なくする構造が考案されました。こうして誕生したのが星の形をした城なのです。五稜郭は、西洋の技術に初めて接した幕末期の人々が、新しい時代の象徴として自らの力で築いた「和魂洋才」の象徴と言えるでしょう。

もう一つ星形の城郭がある!?
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実は日本には二つの星形の城郭があります。北海道の五稜郭ともう一つが長野県の「龍岡城(たつおかじょう)」です。龍岡五稜郭もしくは桔梗の形から桔梗城とも呼ばれています。ぜひ、見に行って見てはいかがでしょうか?

城内の散歩

6月には藤も咲いていました。

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ここが箱館奉行です。ここで様々な取り決めなどが行われていたのでしょう。

五稜郭の歴史~どのようにして出来たのか?~

函館の開港と函館奉行の設置

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マシュー.C.ペリー提督

嘉永6年(1853)、浦賀にやってきたアメリカ合衆国海軍のマシュー.C.ペリー提督は、全権大使として巨大戦艦「黒船」を率いて徳川幕府へ開国を迫りました。黒船の威力を前にした幕府は、翌年安政元年(1854)徳川幕府はアメリカと日米和親条約を結び,伊豆の下田と箱館(明治時代になるまで、函館は「箱館」と書かれていました。明治2年(1869)から函館という文字になります。)の2つの港の開港を決定し、函館は開港場として国際都市になるのです。

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竹内下野守

開港に伴い,徳川幕府は外国との交渉や海岸の防備など、直接蝦夷地(明治2年に北海道と変わるまでこの呼び名となっていました。)を治めるために,「箱館奉行」を設置しました。函館山の麓(現在の元町公園あたり)に奉行所を開きました。

当初の奉行は,竹内下野守保徳(たけうちしもつけのかみやすのり),堀織部正利熙(ほりおりべのしょうとしひろ)の2名となりました。箱館奉行には幕末までの間,合計13名が着任しています。

箱館奉行所の役割

奉行に任命された人々は、幕府の重要な役職を務めた優秀な人物で、産業を興して開拓を進める一方で開港場函館の防備強化のためのさまざまな計画が立てられました。五稜郭の築城もこの一つで、奉行所の建物を移転するに伴って守りを固めるために考案されました。

箱館奉行所の任務は「箱館」の統治、箱館開港に伴う対外関係の処理、箱館を中心とした幕僚地の海岸防備の3点がありました。

箱館奉行の統治する領地は次第に拡大し,蝦夷地全域を統治することとなりました。しかし,安政6年(1859)に幕府が奥羽の6藩へ蝦夷地を分けて警備と開拓にあたらせたことにより,奉行の「御預所」は縮小しました。

さらに箱館奉行は経済政策や農業政策,製鉄業や捕鯨業など新しい産業・技術の開発にも様々な努力を行いました。

日米和親条約では外国人との交易は行わず,食料・水などの欠乏品を補給するための取引だけが認められていましたが,安政6年になると様々な規制を加えながらも外国人交易を許可するという触書が出されました。お触書により開港場となった箱館の町には、外国の水兵や船乗りが毎日のようにやってきます。彼らは商店の品物をお土産として買い求め、八百屋で買ったキュウリやナスを生でかじったり、木魚を叩きながら踊ったりする水兵もいました。

北海道のコーヒー文化の発祥は寒かったから?

安政3年(1856)に箱館奉行は冬の対策として入港したイギリス船にならい,箱館の職人にクワヒルというものを造り,奥地へ配分しています。クワヒルとはいまのロストル付きの石炭ストーブです。またコーヒーを取り寄せ水腫病(すいしゅびょう)対策の薬として兵士に配っており,これが北海道のコーヒー文化の発祥と言われています。

五稜郭の築城

箱館奉行が設置された当初,奉行所は函館山の麓にありました。しかし,箱館奉行である堀織部正利熙は,箱館の地が海から攻撃を受けるとひとたまりもないこと,港から攻撃を受ける際には役宅などが一番に標的となることから,箱館奉行所および役宅を移転することにしました。これが五稜郭の築造へとつながっていきます。

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箱館奉行所が、西欧の学問を研究するために設立した学校「箱館諸術調所」の教授であった武田斐三郎(たけだあやさぶろう)は、オランダから入ってくる新しい学問である「蘭学」を学んだ人物で、西洋式帆船を使って日本一周の航海実習を行うなど優れた教育者でもありました。箱館奉行から五稜郭の設計を命じられた武田斐三郎は、フランス人から贈られた書物を参考にしてヨーロッパの「城郭都市」をモデルとする要塞を考案しました。工事は安政4年(1857)に始まり、7年後の元治元年(1864)には一応完成し、蝦夷地の政治や外交の中心となりました。

しかしながら,この3年後の慶応(けいおう)3年(1867)に大政奉還(たいせいほうかん)となり,徳川幕府が終わりを告げることになりました。

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そして,翌年の慶応4年(1868)には最後の奉行から,明治新政府へ引き継ぎが行われ,徳川幕府の奉行所は,箱館裁判所・箱館府へと移り変わることとなり、現在の形となります。


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