米沢観光~歴史とロマンあふれる城下町~

スポンサーリンク
山形

こんにちはmizuです!

山形県米沢市は、平安末期に地頭が置かれ、伊達氏が212年間、上杉氏が272年間と様々な有力大名が居城を構えたことから、城下町としての街並みが形成されてきました。現在の街並みは上杉氏の「直江兼続」によって築かれました。

また、米沢藩の家祖「上杉謙信」や名将「上杉鷹山(ようざん)」などが生まれました。

今回は観光スポットの紹介の前に、米沢で活躍した人物を簡単にですが、触れていこうと思います!

藩主上杉氏 ゆかりの地の発掘

米沢は上杉の城下町として知られており、米沢藩上杉家の家祖、上杉謙信は戦国の雄、「越後の龍」として、その名が歴史に刻まれています。

ソース画像を表示

謙信の後を継いだ景勝は、1598年に秀吉の命により120万石を与えられて会津に入り、米沢には景勝の重臣「直江兼続」が入りました。

その後、景勝は1600年の関ヶ原の合戦において、西軍に加勢したため、会津120万石から米沢30万石に減俸され、これにより米沢藩初代藩主「上杉景勝」が誕生しました。

以来、幕末の13代藩主茂憲まで上杉氏の居城として発展し、今日に伝わっています。

米沢藩初代藩主 上杉景勝

安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。母は仙桃院(謙信の姉)。謙信の死後、もう一人の養子、景虎との御館(おたて)の乱に勝利し、武田信玄の娘、菊姫と結婚。越後を統一し、佐渡・出羽荘内・北信濃をあわせ90万石余の大領国を確立しました。

「上杉景勝像」の画像検索結果

1598年、会津120万石に国替えされ、豊臣五大老の一人となりましたが、1600年の「関ヶ原の戦い」で徳川家康と敵対して、翌年、米沢30万石に減封となりました。

69歳で米沢城にて没するまでのその生涯は戦国から天下統一、江戸幕府による安定という時代の転換の中にありました。

御館の乱

御館の乱(おたてのらん)は、1578年、3月13日の上杉謙信急死後、上杉家の家督後継をめぐって、ともに謙信の養子である上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となった。景虎と、景虎に加担した山内上杉氏元当主・上杉憲政らは敗死した。

米沢の礎を築いた 直江兼続

米沢藩初代藩主景勝の執政。越後坂戸城主長尾政景の家臣・樋口兼豊の長男として生まれました。幼名は「与六」。早くから聡明さを見込まれ、景勝の近習に取り立てられ、1581年、与坂藩主・直江信綱が殺害されると、名家の断絶を惜しんだ景勝が、信綱の妻・お船と結婚させ、筆頭家老「直江兼続」が誕生しました。

「直江兼続 像」の画像検索結果

1581年、兼続は豊臣秀吉から「豊臣」姓を賜り、兼続を「天下の治世を任じ得る人物」と絶賛したと言われています。

徳川家康から景勝にかけられた謀反の嫌疑にも理をもって堂々と反論。これが世に有名な「直江状」です。関ヶ原の合戦後、上杉家が米沢に減封されてからも、君主・領民の為に心血を注ぎ、60年の生涯を閉じるまで現在の米沢の礎を築きました。

直江兼続の領民・家臣を思う逸話

米沢への転封の際に、上杉家は大変な財政難のため、老臣の中には家臣の減員を提案した者もいたが、兼続は断じてこれに反対し、「かくの如き際は人程大切なるものはいない、一同協力して復興を計るべきである」として去る者は追わなかったが、旧来の家臣は一人も去る事を許しませんでした。米沢はかつての領国の4分の1の石高の地で、上杉家を待っていたのは厳しい暮らしでありましたが、兼続はここで家臣と家族3万人を養おうと、自らは質素な暮らしをしながら、国造りに取り組みました。兼続の指示で土地を開いた武士の子孫が今も暮しており、その家の周りには栗や柿が植えられています。いずれも食べられる食用の木である。兼続は実用的な植物を植えさせることで、人々の暮らしの助けになるよう心を配っていた。

江戸時代屈指の名君 上杉鷹山/治憲(はるのり)

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」で有名な米沢藩9代藩主。上杉治憲。おそらく、名前は知らなくてもこれを聞いたことのある人は多いと思います。

当時の財政は、借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方で、会津時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。

「上杉鷹山像」の画像検索結果

前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどでありました。

奥女中の人数やそれまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額したりと改革や倹約を行いました。その結果、次々代の斉定の時代に借債を完済しました。

伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。

  • 一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
  • 一、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
  • 一、国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。 この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。

今の米沢があるのは上杉鷹山のおかげといっても過言ではありません。日本だけでなくケネディ大統領も尊敬する偉人に鷹山の名前を挙げています。

それほどにすぐれた人物であったということがうかがわれます!

まとめ

いかがでしたでしょうか?簡単でしたが、米沢の地を作ってきた、守ってきた偉人達をご紹介しました。会津120万石と呼ばれていた上杉氏。30万石と減封されても、どんなに財政が圧迫されても上杉の家来という誇りを持っており、家を守り抜く生き様を感じられたと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました