山形の歴史観光~難攻不落 長谷堂城~

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旅行

こんにちはmizuです!

山形には様々なお城があります。今回は戦国時代切っての知将と言われた「直江兼続」が攻めて落とすことが出来なかった長谷堂城のご紹介です!

筆者は冬に行ったのですが、雪が積もっているにも関わらず普通のシューズで登ってしまい苦い経験をしました(笑)

ですので、冬に行くのはあまりおすすめは出来ないです、、、、。

難攻不落の長谷堂城

長谷堂城が初めて記録に登場するのは1514年の伊達氏との抗争中ですが、堅城として歴史に名を残すのは、1600年の出羽の関ヶ原と呼ばれる長谷堂城の戦いにおいてです。

長谷堂城は標高約230m、麓からの高さ約85m、南北約670m、東西約400mの小規模な独立丘陵に作られていますが、主郭である頂上から城内各所への見通しがよく、主郭を頂点とした統一的な指揮命令系統を組織できる抜群の名城です。

山腹には、曲輪や横矢掛り、切岸、土塁・堀などの防御施設が効果的に配置されており、巧妙に敵の侵入を防ぐ構造となっています。直江軍の侵攻を半月にわたり食い止めることが出来ました。いかに堅い城であったかが実感できると思います。

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難攻不落の理由 出羽の関ヶ原・長谷堂城の戦い

1600年9月、徳川派の最上義光の山形城を落とすべく、豊臣派の上杉軍が直江兼続を総大将に2万5千名と、庄内からの援軍を加えると優に3万名以上の大軍が攻めました。13日には畑谷城を攻め落とし、14日には長谷堂城の北西1kmばかりの菅沢山(すげさわやま)に本陣を構え、長谷堂城を包囲しました。

守るのは、長谷堂城兵わずか1千名です。大将は最上軍切っての知将「志村伊豆守光安(しむらいづみのかみあきやす)」、副将は「鮭延越前守秀綱(さけのべえちぜんのかみひでつな)」で城兵は士気に溢れ、知略に長けていました。しかも堅城で、度重なる上杉軍の猛攻に対し、知将志村軍の駆け引きは見事で、15日間もの間上杉軍を翻弄し続け猛攻を防ぎました。結果、上杉軍の名だたる武将が討ち死にしました。

9月29日の夜に「関ヶ原で豊臣方が負けた」という報が直江兼続に届き、一刻も早く会津へ戻り、善後策を立てるべく、10月1日に撤退を開始しました。

尾の戦いの戦死者は上杉軍1600名。最上・伊達軍600名となりました。このことから長谷堂城は「難攻不落」として戦史に残ることになります。

長谷堂城の貴重な動植物の数々

長谷堂城公園は江戸時代の絵図によると、樹木はほとんど生えていませんでした。これは、山城として使う場合、見通しが悪くまた燃やされる危険があったので、樹木は取り払われていたのです。また、今から50年ほどの前の写真にも、八幡神社と長谷堂観音の境内林以外には、ほとんど樹木は写っていませんが、春日神社のシダレザクラ、阿弥陀堂のアズマシャクナゲ等は存在していたとみられます。

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地域が中心となり、「花の名所」にしようと、保護や育成を続けています。その結果小規模ながら豊かな自然に恵まれた城山にカモシカが出没し、ドングリやクルミの実をつける樹木の多い山中ではリスが駆け回っています。

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また、国蝶オオムラサキも生息しています。

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