山形観光~東国一の美女 駒姫の悲劇~

スポンサーリンク
山形

こんにちはmizuです!

豊臣秀吉は天下統一前までは、底抜けの明るさなどがありとても親しみやすさがある印象です。実際に、テレビでも明るさや親しみやすさを持ち、家臣や信長などに好かれている場面が多く描かれています。

しかし、晩年になると茶道の師であった「千利休」を切腹に追い込んだり、朝鮮出兵時の常軌を逸した行動(耳や鼻をそぎ落とし)など残忍な振る舞いが多くなりました。

その中で、肉親である関白・豊臣秀次の切腹事件は罪のない多くの女性を巻き込んだ理不尽・極まりないものでした。

この事件により、命を落としたのが「東国一の美女」と称された駒姫です。

駒姫とは?

1581年、最上義光と釈妙英(大崎義直の娘)との間の次女として生まれました。別名はお伊万の方(おいまのかた)と言います。駒姫は、東国内でもその美貌は名を馳せており、両親も駒姫を溺愛していたと言われています。

ソース画像を表示

豊臣秀次とは?

豊臣 秀次または羽柴 秀次は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名です。豊臣氏の2代目関白です。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀(にっしゅう)の長男として生まれました。

子供が生まれなかった秀吉に変わり関白の座を譲られました。後に秀吉と淀殿との間に秀頼が生まれ、諸説ありますが、秀頼を関白職にさせるために強制的に高野山に蟄居(ちっきょ)となり、切腹となりました。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に家族も処刑されました。

Toyotomi Hidetsugu-cropped.jpg

悲劇の始まり

駒姫が成長するにつれて、美人であるという評判は関白である豊臣秀次の耳にも達します。秀次が奥州平定の総大将として東北に入った際に、山形城に立ち寄りました。その時に側室としての要請を受けることになります。これを受けて義光は豊臣秀次の要請を勇気を持って丁寧に断りましたが、度重なる要求と秀次が関白だったため、これを断ることはできず、駒姫が十五歳になったとき、駒姫を側室として送り出すという約束をしました。

当時の15歳といえばまさに結婚適齢期です。天下人を相手にして、これにはさすがに義光も断りきれず、泣く泣く引き受けることになります。ここから「東国一の美女」と呼ばれた駒姫の悲劇が始まります。

最上義光の成り上がり説?

一部の記録によると、このとき側室として要請したのは秀次ではなく、その権力に近づこうとした父親の義光であったともいわれています。しかし、義光には娘が四人いますが、駒姫以外は全て家臣に嫁いでいます。義光の息子たちも大名家から妻を迎えていないようで、義光はあまり政略結婚に乗り気ではなかったのかもしれません。子供思いの良い父親という印象です。

凄惨な事件

ついに15歳を迎え駒姫は京都に向かいますが、秀次は豊臣秀吉より謀反の疑いにより切腹して亡くなってしまいました。さらに秀次の側近、正室、側室、子供たちまでも処刑を命じます。
駒姫は、側室として京都に向いましたが、豊臣秀次に会ったこともなく、形の上では側室でありましたが、実質的にはまだ側室としての立場も日々もない状態でした。

しかし、駒姫は、三条河原に連れ出され、11番目に処刑されました。この事件により幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名の全員が斬首されました。

太閤記には「あわれなるかな、悲しいかな。かくも痛ましいと知っていたなら、見物に来なかったものを」と後悔する声も多かったと記録に残っています。

後に遺髪が最上義光のもとに送られたといいます。

父の義光が必死で助命嘆願に廻り、各方面からも処刑せぬようにと声があがりました。秀吉の妻である寧々や徳川家康をはじめ各大名からの後押しもあり、秀吉もついにこれを無視できなくなり「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に派遣しました。しかしあと一歩の差で間に合わなったという説もあります。

駒姫 辞世の句

ソース画像を表示
罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき

(罪なき私の身も、世の中のよこしまな動きに邪魔されて、みんなと共に冥土にいったならば五つの徳目に背いた罪もなくなるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかる我が身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか、きっと極楽浄土にいけることでしょう。)

京の華やかな町と関白の側室という自分の姿を夢見、ようやくたどり着いたと思ったら、捕らわれて顔も微かに覚えているか否かの男の為に処刑されてしまう。そんな自分の身の上をいかに嘆いただろうか。私たちには想像も出来ないことです。

駒姫の死から27日後に亡くなった母の大崎夫

駒姫の母、大崎夫人は後を追うように27日後に亡くなりました。亡くなった経緯は多くの方が自殺と言っています。筆者もおそらくそうだろうとは思います。義光はこの措置を非常に恨み、以後、駒姫の助命に尽力をつくしてくれた徳川家康に急速に接近し、最上家が関ヶ原で東軍についた理由になったともいわれています。こんな経緯があれば当然、豊臣方に味方しようとは思いません。

駒姫が眠る専称寺

ソース画像を表示

山形市内にある専称寺は、義光が妻子の菩提を弔うために移設したと伝わります。山形城にあった駒姫の居室をそのまま移したとされる部屋、壮麗な伽藍からは義光の妻子への思いが伝わってくるようです。

さらにここにある桜の古木は「駒つなぎの桜」と呼ばれています。義光が参拝する際、馬をここにつないだという逸話が残されているのです。愛馬にまたがり山形城からこの寺まで、たくさんの領民に見守られながら義光は参拝していたのでしょう。

さらに、この寺には奇妙な話があります。今日この寺を訪れると、綺麗な墓石の、駒姫の墓を参拝することができます。しかしこの墓石はあまりに綺麗過ぎるのです。この墓石は近年建てられたものだからです。

ソース画像を表示

ではその前はどうなっていたかと言いますと、山形市内という都市圏にあるのも関わらず、うっそうとした藪に覆われていたそうです。まるで美しさが災難を招いたから、死後はその姿を隠そうとするかのように、駒姫の眠る場所は隠されていたのです。


国内ランキング

コメント

タイトルとURLをコピーしました